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HOME > 和書 > 脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)
脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)
おすすめ度:
ランキング:6522
価格:¥ 998
発売日:2004-05
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ユーザーによるレビュー
脳死者が意識を持っている可能性がある
(2008-04-01)
脳死臓器移植について多くの点から批判的に論じられているが、最重要は「脳死と判定された者が意識を持っている可能性がある」ことである。多くの人が「脳死=意識が完全にない状態」という理解に基づき脳死臓器移植に賛成しているので、この点のみでも十分脳死臓器移植に対しての抵抗感を生むであろう。
脳死判定が人の死の判定である以上、100%の厳密さが要求される。「例外はあるがおよそ死である」という論理は成立しない。人の死に例外はあってはならない。
脳死判定100例のうち1例でも、意識の残存する可能性がある事例があれば、脳死判定基準への批判としては成立する。それゆえ「データが偏っている」「特殊な例を集めていて中立ではない」という本書への批判も成立しない。また、本書は人間の意識について定義しきれておらず、意識の有無を論じるにはその背景にある意識についての最新の研究成果への言及が乏しいことは悔やまれる。
脳死臓器移植を推進するのであれば、脳死判定によって不可逆的に意識が完全に無いことが立証されることが必要だが、それは困難なまま制度の運用はなされるであろう。
ゆえに、私たちは自衛のために知っておくべきである。ドナーカードを持つということは、脳死判定で意識の有無を立証できず、脳死判定テストの負担によって死期を早めることもあるが、そのリスクを負ってでも臓器提供を行うという意思の表明である、ということだ。
「生きるに値しない命があるのか」という大きな命題を抱えつつも、資本が集まるところ(大企業、富裕層、大医療機関)が要求することはいずれ実現する。命の優劣については答えは無く、個々に考えるべきである。しかし、自分が生きている以上可能な限り生き続けたいと考えるならば、脳死臓器移植を推進する側が隠している事実を理解しつつ、私たち(および家族)は自衛しなければならない。
固定観念が払拭されます
(2007-03-04)
この本を読む以前は、脳死とは心臓が動いている以外、自然死と全く変わらないものだと思っていました。しかし、実際にはラザロ兆候や執刀時の血圧急上昇、頻脈など、筆者が提示する様々な事例から、脳死患者にも意識の存在さえ認められる可能性があるというのです。もし、臓器を摘出される時点で脳死患者が意識を持ち、筆舌につくしがたいほどの激痛を感じているとしたら、これほど恐ろしいことはないでしょう。本書を読むことで、脳死を人間の死と扱い、臓器を摘出してしまうことの非合理性を嫌というほど思い知ることができます。(ただし筆者の考え方もかなり偏っているので、脳死臓器移植肯定派の著作も触れておくことをお勧めします)
自分が知っていることの少なさを思い知らされる本
(2006-12-27)
この本により、臓器移植の現実を通常語られる患者側からでなく、ドナー側から観ることの重要について考えさせられた。本書では、まず“臓器移植でないと助からない”という我々の常識に疑問を提している。移植の待機時間が長くなると移植患者と待機患者の生存率に差が無くなってくる、という事実である。
この本では色々な観点で問題提起を行っているが、特に下記5点が重要だと思った。
1)“定義としての脳死”と“厚生省の脳死判定基準により理念的に確定されるはずの脳死”と“臨床現場で脳死判定基準により実際に判定された脳死”という3つのレベルの“脳死”が存在する問題。つまり、定義としての脳死を、技術的に精確に判定する現実的な手立てが無いという問題である。
2)“心臓死”と“脳死”という、複数の死の存在である。本来、死の定義は、純医学的、生物学的に科学技術によって判定されるもの、と考えられているが、現実は、現在の科学技術では客観的に決められず、高度に倫理的な(人間的な)判断が必要である。
3)脳死者からの臓器提供の大前提になっている“定義上の脳死”の根本が揺らいでいることである。つまり、“脳死者は意識も感覚も無く遠からず確実に死ぬ”はずであるが、脳死患者でも十年以上生存する事例、ドナーを進められた患者が最先端の治療により社会復帰できるまで回復する事例の報告がある。また、移植の現場では、脳死患者が臓器摘出の際に(痛みにより)暴れるために、麻酔を打っている事実がある。
4)医療の現場では、患者の生存のための治療とドナー候補者の可能性(医学的な処置)という、二律相反の問題が存在すること。
5)初めに臓器移植の拡大推進有りきで政策的に物事が進められている可能性である。
本書を読んで、“心で見ないと物事は良く見えない”ということを改めて肝に銘じた次第である。
どちらも正しい
(2006-01-31)
脳死移植について中立的な立場をとるとする本書ではあるが、基本的には脳死移植のドナーの周辺の状況に少し傾いているきらいはあり、全く中立的とはいえない。しかしながら、脳死の話の際には移植される患者の側が公にされることが多い状況を、ある意味補完しているのかもしれない。元は死の概念は心臓死であった。移植技術の行使のためというか、それほど直接的ではないにしろその技術の到来と同時期に脳死という概念化が行われた。すなわち「頭脳をもって生きられない人間から臓器をもらったり心臓死を及ぼしてもよい定義付け」である。脳死といって死のレッテルをはることで殺害による罪概念を昇華しようとする試み。それは一歩間違えれば危険な匂いがするのであるが、一方で成り立ちがどうであれ、現実のなかで変容を遂げ出発点とはまるっきり違って現実にすっぽりとはまってしまう事柄もある。出発はどうであれ人々が脳死という概念と仲良くやっていくのであればそれはそれで良いとも思ったりする。こんな文章を書いている途中に病院内で人工心臓を携えて歩く患者をみて、やはり何とかしてこの人工心臓をとれるような状況を作り出したいとも切に思う。その思いもきわめて切実である。この本で書かれているように「統計的には移植しなくても生存曲線は変わらず、移植の意味自体問う必要がある」という論調は現実を前にしては空しい感がある。
自分を守る知識を得るためにおすすめの本
(2005-12-30)
臓器移植の非常に驚くべき実態が明らかにされます。日本初であるが合法性が極めて怪しかった和田移植に始まり,臓器移植法成立後の高知県での最初の移植の経過を非常に細かく調査しています。生命倫理学の本はとかく著者の独断が断定的に記されているものが多いように思いますが,本書は冒頭で筆者自信が述べているように学術書としての水準を満たすように意図されているので,引用元が比較的詳しく(完全ではありませんが)記され,読者が検証できる道が開かれているのが良いと思います。日本では,多くの方が素朴な善意のみによってドナーカードを持つことが殆どだと思いますが,この本に書いてあるような側面(例:脳死者が動くことがある,摘出手術時に血圧が急上昇する,等)もあるのだということを,メディアはもっと知らせていくべきだと思います。臓器を提供するかどうかの決断は,良い面だけでなく負の面も知ってからでも遅くないと思います。そうでないと,自分や家族を傷つける可能性もあるのですから。この本は,すくなくともそうした判断材料になりうる水準にあると思います。ぜひご一読下さい。
